”ブルメール舞多聞で”買い出し。つれあいがショッピングの時間が欲しいとのことなのでその間ウォーキング。時間的な余裕があるので、戸建ての前に住んでいた集合住宅まで歩きました。▼
105号棟の104。一階ですが裏手は斜面になっており、長女が通っていた小学校が見下ろせます。▼
当時は32才で尼崎市内に住居も勤務校もありました。
日記を読み返すと、子どもが二人になり、文化住宅と称された民間アパートではさすがに手狭になってきました。川西の能勢とか千里の分譲マンションなど手当たり次第に申し込み落選している記述があります。その中で神戸の舞子の公団があたりました。
前後の日記を読み返すと、母校から「数学教員の空きがあるから戻らないか」と、公団の頭金の準備をしている最中に電話がかかり悩んでいます。欠員予定の教員が退職ではなく休職なので3月までは講師という待遇ということが分かり、神戸への転居を決めました。そうなると物理的に尼崎市へは通えなくなり、校長に神戸地区への異動の相談に行きました。学校は教育問題で揺れ続け、若いときの日記帳には長い文章が続いています。
1974/9/13に鍵の引き渡しがあり、9/22に初めての持ち家に住むことになりました。大阪方面の公団があたればそのまま阪神間の学校に勤務をしていたでしょうし、あるいは神戸の分譲が当たらなければ、故郷へ戻っていたかも分りません。人生は後戻りのできない阿弥陀籤。
何かのきっかけで日記を読み出すと40年前に簡単にワープをしてしまいます。
それまでの風呂もなくトイレも水洗でなかった生活から、新しいコミュニティに移り活気に溢れた当時のことを改めて思い出しました。団地内にコープがあり買い物も簡単でつれあいは新しい家のレイアウトを喜んでいたようです。▼
今日の歩数は9,000歩。