3/2と同じタイトルです。
特別に思い入れやコダワリのある一枚の画像をアップするときに、このヘッダーを使うことにしました。
先輩ブロガーのblogに、ガラスの表面にパラフィンを流し線画を描きフッ素水素酸でガラス表面にくぼみをつけ作品を作る技法が紹介されていました。
私が過ごした高校の化学の授業では、実験をよくやりました。当時の教科書はカーキ色の背表紙で黄色の硬い表紙がついた分厚い教科書を使っていました。
実験液でかなり汚れていたように思います。授業中では終わらず、放課後続きをやり結果が出るまで日向ぼっこなどをしていた記憶があります。
“ガラスのペイント”に触発され、パンドラの箱を開けて見ました。
記憶の片隅にあった高校時代の思い出として捨てていなかった“作品”が出てきました。
粗雑なガラスで線の切り込みも浅くブロガーの方のような芸術性はまったくないこれは落書きです。
果たして提出作品なのか、実験の合間にいたずらで作ったものか定かではありません。また紹介された方法で作ったものかどうかも不明です。
当時の友人の姿を意識して私が描いた絵であることは間違いがありません。▼
まだ己が何者になるのかもわからず、山陰の小都市を飛び出していく先にどのような生き方が待っているのかわからない前の時間がこの中に凝縮されています。
左から、Y,W,H,S,Kの諸兄です。
この中でS君は、2009/8/25のblogで“
私の過ごした高校時代のある見方”で触れてますが、労働運動の中で過労と医療ミスの中で30歳という若さで亡くなりました。
K君はコピーライターとして多くのヒット作品を作り出した経歴がありますが詩人でもありました。2009/8/26のblog“
私の過ごした高校時代のある見方(2)”で触れています。
彼の墓に残された友人たちで墓碑を作りました。そのデザインを私が担当しましたが、並んでいる木立の一番左の空間がS君のいた場所を示しています。
そして、S君、K君とも逝ったあと
それぞれに遺稿集を出版しました。
残った3人のうち一人は所在が分からず、もう一人は闘病生活を送っています。
元気になお社会とかかわりを持っているものは少なくなってきました。
残りのメンバーで逢うとき「お前がなくなってもSやKのように遺稿集を出すような生き方をしてないな」と話したことがあります。
今年の6月には、同窓会があります。
前回も300人の同窓生のうちの100名余が故郷に戻りました。
このような高校時代の“遺物”に遭遇すると、改めて精神的には豊かで恵まれた環境と、時代に多感な時代を過ごせたと思います。