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統計資料から当時の社会を見る
本日は、6/26に紹介した温暖化傾向を調べることを話しました。気象庁の気象統計情報のホームページデータから演習として自分の出身地行きたい場所の気温や降水量の年度別比較をしました。

那覇の100年間の毎月の気温の変化で見ると1945年は、2月から5月は×で6月から12月は空白です。
サイトで記号の説明を見ると、
× 資料なし(欠測) 測器の故障などで値が得られなかった場合。(気象官署)
空白 統計しない 統計値を求める期間に観測を行っていない場合。(気象官署)
とあります。
先週は総理府統計局の人口動向調査の年代別分布で戦争の影響について触れたので、学生に理由を質問するとさすがに「敗戦の年で観測ができなかった」と答えました。
1945年3月23日に沖縄本島へ艦砲射撃開始。
同年6月22日に大本営、沖縄作戦の組織的戦闘を発表。
つまり5月までは気象観測の担当者はいたが機器がなかった。6月以後の空白は役所が解体され業務自体が存在しなかったということです。
1946年1月には、どのような人たちがどういう思いで記録を開始したのでしょうか。数字の羅列にも深い意味が読み取れます。(クリックして画像を拡大して見てください)
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次に文部科学統計要覧から、中学校と高等学校のエクセルデータをダウンロードし、各種の表を作りました。

私は、昭和33年(1958)3月に中学卒業を卒業しました。5年区切りの統計ですが、55%ほどが高校に進学しそれ以外は、経済的な事情で中卒のまま社会に出ました。
その後は所得も上がり1970年には高校進学率は80%に達し、さらに90%を超えて全入状態になったことが分かります。▼
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昭和36年(1961)3月に高校卒業しました。大学への進学率は1960年が17.2%とありますから、アバウトに私の時の大学進学率は19%ぐらいでしょうか。中学の時の同級生の内、大学まで進学できたのは、×0.55×0.19で概数を出すと10%ほどと見ることができます。▼
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当時は“四当五落”ということばがありました。いまや完全に死語ですが。そして今は高校へはほとんど進学しますから、同年代の半数以上は大学へ進学という高学歴時代になったと言えます。
我々の時代の大学生が、エリート意識を持った“インテリ”意識が強かったのに対し、今は「たまたま18~22歳なので大学生で居ている」という大衆化の時代ともいえます。以前の大学生と今の大学生では質的にも変わっており、同じような質的なレベルの要求は無理なのかもと思うことがあります。
今日は、私の思い入れもあって、睡魔に負けていた学生がいましたが、一方的に話し続けました。たまにはこんな講義日があっても・・・・。
by okadatoshi | 2012-07-04 21:53 | 情報/数学/授業 | Comments(2)
Commented by shinmama at 2012-07-05 06:35 x

高校生だった時、「大学院」への進学率が 昔(昔っていつだろう)の「大学」への進学率と同じくらいだと聞いたことを 覚えています。

ところが 息子が「大学院」に進学した 2006年。
学部から「大学院」への進学率は 約85%でした。
表を拝見すると、「大学」への平均進学率より高くなっています。

長い間 仕送りをさせられた親としては、大変興味深い資料でした。
Commented by okadatoshi at 2012-07-05 08:35
shinmamaさま
成績が優秀でも経済的な事情で進学ができない同級生が多くいました。
高卒で地銀に入った同級生でも、役員として残りその内の一人は常務まで上り詰めました。大手企業の現業に入っても優秀な人は内地留学や企業内高等教育機関で幹部教育への道が当時は開かれていました。

本当に勉強をしたい人にそういう機会が広がるのはいいのと思いますが、今や遊民として4年間大学に留まっているだけという現状があります。
学歴社会で苦い思いをした親たちの世代は、高額の学費を(子どもと触れ合う時間を犠牲にして)パートで蓄えます。
親の苦労、自由な時間を有効に使って欲しいとオジサンは思います。
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