諦めない心
b0036638_21375396.jpg5月に引き続き時事懇談会を聴きました。
講師は、工藤公康氏(元プロ野球選手解説者)。
今回は固い政治問題から離れた野球の道を究めた方の話です。メモをもとにまとめます。

●野球選手は故障を抱えながらプレー

29年間の野球生活ではいろんな人に助けられたことを話したい。野球選手で成り立ては別にして5年以上続けている人は故障だらけだ。
ボルタレンを3~4錠飲み上と下から劇薬のようなものを入れ続けた野球生活だった。
阪神の城島はヘルニアだし、金本選手は通常では野球を続けることが考えられない肩の故障を精神面で克服をしながらやっている。
私も自己管理という面では過去の選手がやらなかったトレーニングを考えやってきた。

●野球を続けたのは父の影響

私の父は、“巨人の星”の星一徹そのものだった。毎日のようにちゃぶ台をひっくり返すし、鉄の下駄も履いた。冬は短パンとTシャツで素振りをやらされた。自分の影を見ながらボールの位置を考えスイングをしていると母親がこっそり来て「父さんはもう寝ているから部屋に入りなさい」と言ってくれた。火の玉ボールのノックだけはなかった。
だから子供の時は野球が嫌いで父の起源を損なわないために野球をやった。だから中学時代にはハンドボール部に入った。父親は草野球のキャッチャー。
それでも高校は名古屋の電気高等学校(現在の愛工大名電)に入った。

父親も「お前はプロにはなれない」といい熊谷組でノンプロに進むつもりだった。ところが、根本さんと父親が話合い急に西武に行くことになった。
プロに入ってみて、こんなにもレベルが違うのか!と思った。入ってから3年間はワンポイントを投げるだけ。
最初の仕事は先輩のアイスコーヒーを作りことだった。当時は缶コーヒーなどなく毎日10人分作らされた。
プロに入っても“集合”があった。プロではないと思っていたが、正座をさせられたそんな時代だった。私は西武では足も球も遅い。二軍では私より早い人が多くいた。

●アメリカマイナーリーグの1A生活

3年後に広岡さんからアメリカへ野球留学をさせられた。アメリカではメジャー、3A、2A、1Aとあるが1Aの環境は凄い。荒削りだから変化球は打たれない。しかし、精神的なタフさは日本の野球とは違っていた。マイナーリーグでは、ミールマネー(食事代)でその日を暮らす。車の中や寝袋でシェアをして15ドル(当時のレートは@240円)でハンバーグで食べ宿泊代を切り詰めて生活をした。1Aで首にされたら日本人ならもう目はないと諦めるが、彼らはまた戻ってくると真顔で言っていた。アメリカ人の精神的な強さを1Aで感じた。彼らは当時の日本野球のように練習時間を長くとらない。試合で結果を出すように合理的に練習時間を考える。

広岡監督の練習量は凄かった。自主トレを12/27までやり実家で正月を過ごすと1/4の新聞で監督の「やる気のない選手は帰ってくるな」という発言が出る。それを見て私はすぐに球場に戻った。所沢に近づくにつて他の選手も多く戻ってきていた。1月10日から100mを100本などさせられた。
ひたすら練習をやらされた。それが我々の若いころだった。しかし、練習を長くやったからと言って球が速くなるわけではない。その時はわからなかったが実はこれは“ふるい”にかけられていたのだ。最後まで残った選手が一軍へ上がった。幸い私は体力があったので生き残れた。
高校時代に寮と学校の間13kmを日々走ったことで体力がついたと思っている。
日々やっていたことだけが結果に表れる。下の人間はすべてを知る必要はなく“ふるい”にかけられればしがみつくだけ。

●故障の身体に打ち勝つ

アメリカ行ったことで、私は「やらされる練習」はしなくなった。その変わり、自分に課した練習はやった。1985年だが翌年球が10k早く走れるようになった。
しかし、日本シリーズではバースに歌の通り右に左にとホームランを打たれた。
日本シリーズの時の広岡監督のミーティングは1人に1時間ずつやった。合宿所も外には出られないTVもなにもない宿舎でのミーティングだった。
当時の阪神の応援は熱狂的だった。試合が終わりレフト側に我々のバスが来るのだがファンに囲まれて40分はバスが出せなかった。シリーズは負けてよかったとさえ思う。勝ったらどうなったか。

翌年は先発に残り、自分も鼻高々だった、その結果肝臓を傷めそれでも誘いがあれば飲んだ。
こうして身体がボロボロの時に嫁さんと出会った。
嫁さんにももう1年ダメだったら田舎に帰ろうと言った。そして、外からの誘いの電話はすべて嫁さんが断った。次の年には成績が残せた。ダイエーに行って4年目に初めて肝臓の値が正常に戻った。
新しい球団に外様で移ってまず成績を残す。そのことで周りの見る目も変わってくる。外様の1年目は厳しい。44歳で横浜に行っても同じ。そういう中でいかに自分の気持ちを奮い立たせるのか。

20年目にPNFトレーニングを始めた。限界を超えて脳もドーバミンを出しそこから身体能力が伸びてくる。30代、40代と同じ練習内容をこなさないと若い選手と対等にやれない。

●ピッチャーと打者の戦い

この世界で生きていくにはピッチャーはバッターとの勝負に書けるべきで、ベンチの動きをチラチラ見るようではいけない。バッターと真剣に立ち向かう。
東尾は2本打たれたら3本目には初球をその打者にぶつけに行った。(と言われている)
自分が打たれてこの世界から消えるのか、打者にぶつけて相手をつぶすのか、立ち向かうピッチャーなら後者だろう。
野球は情報戦略戦だ。お馬鹿さんにはできない。サインでも30種ある。そのうえで打者の癖を覚える必要がある。

筑波大学に行って新たなトレーニングを受けた。そのとき先生は「まだまだ大丈夫、大丈夫」と言われた。ここではオリンピック選手を鍛えたメニューをやった。スピードスケート選手のメニューは過酷。ランナーズハイを超えることで能はストップの信号からGOに切り替わる。この筑波の訓練で知らない領域を知った。それまで50mw6.3秒で走ったいたのが1冬過ぎて5.8秒まで行った。
ただ、精神論でヤレヤレで結果は出ない。説明して理解をして行動の結びつきをしっかりと考えさせる。

●少年野球の指導

9~15歳で運動神経が伸びる。
この時期に野球ばかりやるのは良くない。寒いと季節にはその厳しさを体現させる。温度調整の効いた環境で練習しても効果は上がらない。自律神経を鍛えることで伸びていく。そういう指導を野球教室でやっている。スポーツは文化であるという気持ちを子供たちに伝えたい。

普段の厳しい政治の講演と異なり会場もリラックスをしていました。
その雰囲気に乗っかり本日の昼食を撮って見ました。▼
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by okadatoshi | 2012-06-11 21:41 | 講演会記録 | Trackback | Comments(4)
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Commented by shinmama at 2012-06-11 22:23 x
現役時代から 自分流のこだわりが強いプレーヤーでしたので、
話を聞いてみたいと思う人も多く、講演会は盛況だったことでしょう。

そんな恵まれた機会は私にはないので
「そうか」「そうだったのか」と 面白くブログを拝見させていただきました。

ありがとうございました。

広い分野で 講師を選ばれ、しかも内容が興味深い、いつもながらによい講演会ですね。
Commented by okadatoshi at 2012-06-11 23:24
shinmamaさん
凄い肉体改造を淡々と話していました。
誠実なプレイヤーなんだろうなという印象です。

会場は合同例会のために500名ほど。
30分で会食、90分で講演というパターンです。
会の主催者側の教え子が、招待枠を使って呼んでくれるので
ありがたいと思っています。
Commented by kazewokiru at 2012-06-12 09:49
okadatoshi 様
野球選手に対するインタビュアーとしての工藤氏の支持率も高いですね。
若い選手に対しても常に敬語で同じ目線で語り合うのが良い。
その道を一筋に極めたプロ。華々しい表舞台に立てるのは一握りの人。
努力しても報われない人の方がはるかに多いのが世の中の厳しさ
Commented by okadatoshi at 2012-06-12 11:46
kazewokiruさん
日曜日の朝の毎日放送でプロ野球やスポーツの戦歴を“あっぱれ”とか“喝”などと言い放って評論する番組がありますが、上から目線、横柄な断定が鼻につき最近は見てません。
“みの”某氏の顔が出ると条件反射的にチャンネルを変えるか消します。
「言葉」を伝える番組・報道が少なくなりました。
感情的でオチャラケの娯楽番組に何でも加工してしまいます。
政治家の方もタレント化されて報道することに迎合しているし。
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