人気ブログランキング | 話題のタグを見る
私の過ごした高校時代のある見方(2)
 昨日のblogに関係した画像を1枚紹介します。
S氏は、1973(昭和48年)8月医療ミスで30歳の若さで亡くなりました。
H氏からの連絡は当時は電報でした。今もその日の日記に電文をはさんでいます。
 死因に不審をもったご家族の希望で遺体の解剖と状況保存をしたために、当時の医療訴訟では珍しく1審は勝訴。高裁では逆転敗訴。裁判の度に、母親と奥さんは上京、K君やH君も裁判の支援をしていました。母親はミスを認めて謝って欲しいの一念でしたが、執刀医と離れて医療保険代理弁護士が機械的に最高裁判決まで全面に出てくる遺族には虚しい裁判でした。

 1975年にK君が中心になって、S君の追悼集「白い季節からの報告」を編集。タイトルと表紙は私が提案。
 その後、1985年の十三回忌には、彼の墓の横に墓碑を作りました。

 その当時、コピーライターとして大手のCMづくりに腕をふるっていたK君の文面で、デザインは私が担当しました。樹木が植わっている大地の左側の空間はS君の居た場所を示しています。
 この文案で、「一生懸命」とありますが、実は原案は「一所懸命」でした。
 私がデザイン化するときに、私の判断あるいは思いつきで「所」を「生」に変更をしてしまったのです。出来上がったときに、K君から「彼の場合は一所なのだ」という説明をされ彼の口癖の「バカタレめ」と言われました。コピーライターとしての彼の卓越したセンスを思い知らされました。

 皆忙しく生業を持つ中、帰省のたびに在郷の友人とともに鳥取の母上のところへ行きました。そこには、高校時代と変わらぬ空間がありました。
K君の追悼集にも原稿を寄せている女性陣が、体力も衰え独りで生活できなくなった母上を島根に離れている奥様とともに定期的に通い身の回りの世話もしていたようです。

 今は、残されたお子さんも結婚し、また母上とS君の墓も鳥取から、奥さんの実家のある実家へ移されました。
 今回、K君の「追想集」編集に関し当時の、墓碑の行方を問い合わせたら、奥様が「墓碑」もお骨と共に移動し大切に保存をしていました。
下記の画像は、奥様から送って頂いたものです。
 この墓碑の裏には男女合わせて10人の寄贈者の名前も彫られています。
来年は、この方々に呼びかけて、墓参りをしようかと話し合っています。

 一方、K君は亡くなる直前までメールのやりとりをしていました。
「死んだら墓はいらない。しいてつくるならサルスベリの木の下に埋めて欲しいものだ」というやりとりがあり、亡くなったときにその文面をご遺族に転送をしました。K君は、墓所に「さるすべり」を植えそこへ分骨し「樹木葬」がなされました。

 私の高校時代は、級友同士の付き合いに加えそれぞれの親の世代もつながっていました。ただ、狭い地域の中、人の噂を生活のスパイスにしているような閉鎖性が嫌で、私の場合は、県外に進学し今は神戸に住んでいます。
 この年代になると帰省をすれば、当時の友人が親の世代になり連絡すれば集まってくれる故郷になっています。
私の過ごした高校時代のある見方(2)_b0036638_11291646.jpg

by okadatoshi | 2009-08-26 11:31 | セピア色/若い時代 | Comments(0)
<< 秋に向けて家庭菜園を耕運機で耕す 私の過ごした高校時代のある見方 >>