ここ半年ほど高校時代の級友のK君の追想集に関係をしていました。
一周忌になんとか発行ができ、現在原稿寄稿者の元へ冊子が発送されています。
昨年の6月に彼は逝きました。彼の才能を惜しみかつK君と共有した時間を考えることで「己はどう生きたのかこれからどう生きるのか」を問う人達の思いを「追想集」にまとめることができました。
やはり高校時代の親しい友人でS君がいました。彼は、社会変革を目指し労働運動を実践することを通し体力を消耗し医療ミスの犠牲になり30歳の若さで亡くなりました。K君が当時、S君の追悼集「白い季節の報告」編集の中心になりました。
高校時代の友人の追悼集が本棚に二つ並ぶことになりました。▼
K君の追想集には私は「白い季節・その後」として文を寄せました。
(以下、文章の一部を抜粋します)
私はA市の高校に就職し、彼は高槻の塾バイトのついでに時折訪ねてくることがあった。その後、彼は上京し日々の暮らしの中で〝生業〟に埋没していった。
それぞれに配偶者を得、高校時代とは切れた生活に入った。
そして私たちをまた引きつけたのは、Sの壮絶な戦死ともいえる突然の死だった。
1973年8月29日、自宅にH氏から電報が届いた。それには『Sシス二九ヒソウギ』とあった。死などまだ遠い存在と思っていた働き盛りの私たちには衝撃だった。悪い冗談だと思いたかった。その夜Wに電話し、電報の内容について情報の共有に努めた。
二ヵ月後、研究会の出張があり上京。10月21日、一家で引き揚げる前日の船橋のS家に行き、Sのお母さんと夫人に会う。翌夕方、Kと渋谷で落ち合い新宿のバーでH氏と会う。
皆やりきれない思いで酒をしこたま飲んだ。日記によればこの日Sの追悼集発行の話が出た。その夜はふらふらになりながら、辛うじてH氏宅にたどりつき倒れ込んだ。
そして、今、我々はKの追想集の〝文〟を書いている。
その後も、私が上京するときには東京在住の高校時代のメンバーが集まった。
パソコンを「ヒカリモノ」と言って敬遠していたKは、ケータイを覚え手紙ではなくメールによる交流が復活した。彼は仕事の規模を縮小しイタリア移住の夢を語った。
リビングから見事な春が流れ込んでくる桜の時期にはK邸へ集まるようになった。
「生産とは関係ない“虚業”で収入を得たよ。してやったりの人生だ。」とKは私に言ったことがある。それは、K独特のシャイで逆説的な表現だった。
* * *
学生時代K君もS君も私も進学先では新聞関係のサークルに偶然か必然なのか籍を置きました。その後、空白の時間があっても合えば、高校時代に戻り利害関係のない時間がそこにはありました。
親しい友人の訃報は時間の経過とともカウンタブローになり精神的に堪えます。