映像の戦後60年
1/21にBS2で、「映像の戦後60年」を録画しDVD/Rに焼き付けて、パソコンで他の作業をしながら見終わりました。居間のTVしかBSが見られないのですが、DVDをつけたために、焼きこめばパソコンで見られるようになり便利になりました。
再放送は、1月23日のBSハイビジョンで19:30-22:00にあります。
このシリーズは、1年にわたり11回あり、

2月「涙」 あなたは何に泣きましたか?
3月「青春」 あなたは何に熱中しましたか?
4月「働く」 あなたにとって仕事とは?
5月「都会と故郷」 あなたにとってふるさととは?
6月「アメリカ」 あなたがアメリカと出会った日
7月「子ども」 あなたにとって家族とは?
9月 1945年~1960年 焼け野原 ゼロからの再生
10月 1961年~1975年 高度経済成長 農村から都市へ
11月 1976年~1990年 バブルに浮かれた時代
12月 1991年~2005年 迷走 そして未来へ

と予定されています。番組の編集方法も、Webや番組に中で視聴者に当時の8ミリの提供や手記などを呼びかけており、視聴者参加番組に形式をとっています。
この番組にサイトは、
http://www.nhk.or.jp/sengo60/top.html
ですが、ここに「インタラクティブ年表」があります。そこの年表をクリックして自分の生年月日と名前を入れて、「年齢計算」をすると、10年後とに区切った時代にジャンプしてその年代の出来事と年齢が出てきます。
私の場合、大学4年の時に東京オリンピックが開催されています。駆け足で今まで過ごした60年を振り返ることが出来ます。2005年に近づくに連れて、衝撃的な事件が目立つような気がします。
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# by okadatoshi | 2005-01-22 19:27 | セピア色/若い時代 | Trackback | Comments(0)
一人の震災ウォーク
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(画像の説明)
市役所24階から見た東遊園地の広場/メモリアルホール/JR長田駅前の竹文字(1/17)

10年前には私の勤務先が兵庫区にありました。震災直後、建物と駐車場に2000人を超す人々が避難をされました。全国から送られてくる支援物資の整理と配布を泊り込みで行いました。
私の自宅はたまたま岩盤が硬かったのか大きな被害はありませんでした。被災に「あう・あわない」、、家族に犠牲者が「出る・出ない」は、住んでいる場所等の偶然に支配されたように思います。私は、1.17のセレモニーへ今まで参加をすることはありませんでした。毎年この時期になると特別番組を見ながら、「被災された方は大変だ」見ているだけでした。
追悼集会の場は、被災しなかった私が踏み込むべき場ではない、という思いがどこかにありました。興味本位とも思われかねないことへの遠慮があったのです。
走り続けた現職を二年前に退きました。散策の途中で“市民手作り新聞”のスタッフ募集のチラシが目に留まりました。第二ステージに入ると、世間が狭くなります。「新しい広がりがあるかも知れない」と気軽な気持ちで応募をしました。遅れて参加した“市民レポーター”の私は、編集会議の中でもう一度震災との関わりを問い直す機会になったのです。スタッフの構成は、学生・主婦・私のような立場の方々などバラエティに富んでいます。ボランテァ活動に関心がある人や、趣味のカメラを活かしたいなど動機も立場も多様です。共通しているのは旺盛な好奇心が原動力というところでしょうか。「やれるときにやりたい事をやる」という揺るかやな自主性に任された集まりでもあります。
私に場合、16と17の両日で5箇所のイベント企画会場を取材しました。市民手作り新聞のスタッフであることを告げると、代表の方は快く時間を取り、自分たちの企画へ思いを熱く話されます。この光景は、かつて震災時、電車で隣り合わせた見ず知らずの人同士が自然に話しあったのに似ていました。10年経過し、「風化させてはいけない」という思いを我々編集スタッフを通して伝えておられるのだということがわかりました。
17日は、10年前に避難所であった場所を訪れ、そこから三宮のメイン会場まで歩きました。
途中の商店街では、正午に追悼があり、そばを無料配布し寄付された募金をスマトラ沖地震へ全額寄付するという店もありました。震災直後にはあったお互いへの関心が、それぞれの生活の殻の中に閉じこもっていたということに、歩きながら気づきました。
現在の高校1年生が被災当時、幼稚園の年長組です。やがて急速に震災体験の記憶がない世代が増えてきます。伝えていくべきことをそれぞれの立場で何ができるか考えることから、“これからするコト”が見つかるような気がします。 
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# by okadatoshi | 2005-01-18 21:11 | デジの目 | Trackback | Comments(0)
1月16日の神戸のピンスポット
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午前中に板宿の“すまいる大黒”。NPO神戸西・助け合いネットワークのAさんに話を伺う。震災10年の節目、次世代へ体験を繋ぐために始めての試み。「今朝の新聞にも掲載されていますが、120人の小中生を含む住民に10年前の被災経験をしてもらう。つらい思いの再現などはどうか?という論議もあったが風化させないことが重要」とのこと。須磨区子供会連合会のI氏によれば、「最近の子供たちは落ち着かないし騒がしいと思ったけど案外落ちつきたくましくこちらの話も聞き行動をして見直しました」といわれました。15日は当時のビデオを見て語り大人から体験談、非常食を食べて実際は60人講堂に眠った。16日は、行動で地域の方々や地元の小中学生の合唱などを皆で鑑賞。平成14年度から、大黒小学校が地域の交流センターとして利用され、平均で6割は施設が利用されすっかり地域の拠点として根付いています。

次に長田神社でおこなわれている“つづら折りの宴in長田”の会場へ。震災後に開催されて以来、二度目の開催。主催者であるボランティア団体「すたあと長田」の代表のKさんによれば名前の由来は、震災直後の街の様子の状態からつけたとのこと。10年目に長田に元気をという趣旨でミュージシャンの協力が得られこのイベントが実現したとのことでした。Kさんはきわめてパワフル。

引き続き、北野工房の3階で開催されている“まちの記録者たち展”へ。主催者のY氏にインタビュー。「2年前に神戸市の広報番組でサンTVで知り合ったメンバーが集まり今回の企画に発展した。YOさんは長田で写真屋を営み洋風建築の記録をしていた。今回は、写真だけでなく、ビデオ、音の収録、詩人と震災への思いをキーワードに様々な視点から記録に迫る試みができた」とのこと。会場では、詩人のYA氏にもお会いした。「会場で自分の震災に関わる詩をコピーしてクリップで留め気にいたら自由に持ち帰ってもらう形式にした。今までに2000枚印刷してもおいつかずこんなに多くの方々にきてもらい驚いています」とのこと。定点観測の記録者としてOさんにもインタビューができました。今年、81歳。震災の10ヶ月前にご主人を亡くされ、苦労して建てた家が全壊。記録に残したくてそれまで、花ぐらいしか撮っていなかったのが、病院や買い物の行き帰りに建物を見ながらこれは記録をしていかないと風化し忘れ去られてしまう。市民レベルの地道な記録は新聞にも掲載され、「翔け神戸」という定点撮影の冊子にもなっています。「おばあちゃん、いい仕事をしましたね」というと「Oさんと呼んで。おばあちゃんといわれると私は返事をせんよ」と叱られました。震災当時のビデオ作品も上映、また震災当時の電車の中のアナウンス(御影が終点で西宮までの代替バスの案内が社内に流れる音の録音)も会場で聞けます。今風にいえば、震災10年をテーマにしたコラボレーションといえます。

3箇所を回るだけで時刻は3時半。東遊園地まで来ると、雪地蔵が完成し作業をしていた生徒たちが最後に集まっているところでした。会場は、各社の報道社と機器が乱立し慌しい雰囲気。以上は、「震災10年神戸からの発信=市民スタッフ」としての取材メモから。
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# by okadatoshi | 2005-01-16 22:51 | デジの目 | Trackback | Comments(0)
大震災10年目
b0036638_23415161.jpg10年目の節目ということと、新潟やスマトラの地震・津波の報道もあって阪神淡路大震災の教訓をどう生かすかという趣旨に沿った報道番組が、ここ数日流れています。
季節モノとして1/18から忘れ去れることなくしっかりこれからの広がりを見据えた運動になって欲しいと思います。
淡路に移設された、「震災の防火壁」をTVでみました。この画像は、長田駅を通り過ぎると見えた壁で、その年の8月ごろの車窓風景と思います。当時はまだ珍しかった初代デジカメカシオのQV10で撮ったものです。
当時の勤務校が最大時、2500人の被災者の方々の避難所になりました。そのときの記録をまとめたものが、阪神大震災と学校の周辺です。

当時は、情報部の生徒を使ってエクセルで避難をしている人の「避難場所、もとの住所、名前」をデータベースにして更新をしたものを日々、玄関においていました。
「避難場所=校庭の車内」などという分類があったのを思いだします。
明日と、明後日は、神戸の震災後10年の事業をこの目でみてこようと思っています。
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# by okadatoshi | 2005-01-15 23:41 | デジの目 | Trackback(1) | Comments(0)
20才にもどれば、、、
ウォーキングをしながら、ラジオをよく聞きます。最近はシリーズで、「あなたが20歳に戻れたら何をしたいですか?」というもの。
もう40年以上前のこと。日記を取り出してみました。

1/15(火) 
一度しかない成人式の日だがここ数日ひどい雪で外に出る気もしない。正午で85cmの積雪と報じている。この調子で明日休講になればと願う。代数の試験はとても優をとれる自信はない。午後5時G氏の誘いでS劇場に。
(以下二本立の邦画の批評がうだうだ・略)

サークルの先輩のG氏が成人式のおごりといって、近くの学生がよくいく“トリスバー”でおごってくれたような記憶があります。数日、市内は雪で市電も止まり、「20だぁ~」と叫びながら雪の壁にぶつかり、大の字をつくりながら、下宿まで戻りました。
成人式などという催しそのものが、今のようになかったのか、式典があったのか定かではありません。成人式への招待は故郷を離れている性か私にはきませんでした。少なくとも、参加者は式典を妨害して憂さ晴らしをするというような「ニュース」は当時は聞いたことがありません。
普段は、授業をサボりサークルとバイトに追われ、試験中だけは徹夜の連続で乗り切っていたごくごく普通の学生生活を、暗い北陸の空の下で送っていました。
60年安保に挫折感の中に入学し、大学管理法反対のデモにバイトの空きを利用をしては参加し、理解できないまま本棚には「存在と無」と「資本論」が並んでおりました。デモもヘルメットなどの防備もなく警官も制帽。女子学生なども結構一緒にデモへ参加していました。とりあえず学生はエリート意識もあり比較的まじめに勉強をしていた時代でした。

当時の20歳に戻ったとしても、「これから何者になるのかわからない将来に対する漠然とした不安の中でとりあえず与えられた環境の中で、周りの似たもの同士を嗅覚でかぎあって議論を吹っかけ群れる生活」をまた繰り返すのではないでしょうか。
年齢が若くなるということは、経験値も財力も年に応じて欠落していくということです。
また、同じ生活の繰り返しをするんだろうなという思いしか浮かびません。
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# by okadatoshi | 2005-01-13 23:51 | セピア色/若い時代 | Trackback | Comments(0)
鏡開き
b0036638_18424526.jpg1/11は鏡開きの日です。今朝は、お餅の雑煮でした。
昔は、カチカチに硬くなったお鏡餅を、出刃包丁をあてて切り分けていました。
小学校のころ12/29は、餅を「つく=29」日として餅つき道具一式担いだ人が家々をまわっていました。家族総出で餅を丸めて冬の間お餅を食べていたのを思い出します。やがて、餅にアオカビが生えてくると、それを防ぐのに水かめに入れたりしていました。
最近の鏡餅は、プラスチックの容器の中に二つずつ小分けしたお餅が入っています。さらにその中には乾燥剤のようなものもついています。
簡単に剥がして、必要に応じていつでも使える便利な保存食品に化けています。
ただ、こういう工夫をしても子供の世代は、餅そのものを受けつけなくなったり毎日食べるのには飽きるといいます。「晴れの日」には、餅を食べて祝うということももう通用しない時代になっています。
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# by okadatoshi | 2005-01-11 18:43 | デジの目 | Trackback | Comments(0)
弓引き
b0036638_1712253.jpg散策コースでもある奥畑大歳神社の弓引きに神事(百々手武射式=神前にて二名の成人が弓引きをすること)を見てきました。
成人式で忙しいのか少子化で年代に達した男子が村にいないのか、この日は中学生ぐらいの少年でした。射るたびに正座して盛り土に竹串を刺して伝承されている所作を年配の人が教えています。
周りの人は50名ほどで、関係者も多く、ローカルな村の氏子が集まっているという感じです。私たちは、近くの丘陵地を開いて開発された団地に25年ほど前から住んでいるいわば新住民ですが、周辺の村にはまだ神社や氏子があり、昔からの暦の変わり目に行われる農耕民族の伝承行事のようなものが残っている事に最近気づかされます。
仕事を持っていたころには、平日でこれなかったしそういう余裕も関心もありませんでした。
お袋の味がレストランの味にのっとられてたように、固有な行事がTVに代表されるマスメディアの報道の中に吸収されないようにと思います。しかし、子供たちは「寒い」といってなかなか出てきませんが。
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# by okadatoshi | 2005-01-10 17:14 | デジの目 | Trackback | Comments(0)
青涛館の前
がんばろうKOBEb0036638_1732962.jpgイチローがオリックスにいる時は、球場近くにある雨天練習場および若手選手の独身寮「青涛館」には、何人か追っかけがいたものでした。今日は、それらしき人物が集まっていました。
オリックス『ブレーブス』の部分は、『バッファローズ』になっていました。最初が、同じBだっだので気づかなかったけど、門の青銅版も巧みに修正が終わっています。
来期は、半分近くは神戸の球場でも公式戦が組まれるようですが、その次は球団本部を大阪に移動するらしいので、この建物もどうなるのか。イチローも帰国時の練習場としてここを使うこともなくなるのでしょうか。
今年は震災10年の節目の年。その区切りで、「がんばろう神戸」のワッペンをつけたオリックスの最後の年となるとすれはなんとも、残念。
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# by okadatoshi | 2005-01-09 17:05 | デジの目 | Trackback | Comments(6)
吉本新喜劇に立っていた岡八郎
b0036638_22313635.jpg神戸国際会館こくさいホールで開催された新春吉本「お笑いバラエティショウ」の午前11時の部を観覧してきました。今回、神戸市商店連合会が“復興感謝”のお礼をこめて今までは商店での購入者への景品で発行してたイベント応募券を一切の条件をつけずに誰でも応募できるように広げました。
応募件数は15万通。2000人全席無料招待。ちなみに3時の部では入場料は一人4,600円。
第一部の吉本新喜劇では小気味よいテンポの中で、警官役の岡八郎が出演していました。「奥目の八」といわれる全盛時代以後は不幸が続き、結核・胃がん・急性膵炎・脳挫傷。身内の不幸等の中でとうとうアルコール依存症に。何度も舞台に立とうとしてもできなかった日々。このあたりの彼の葛藤はTVドキュメントを見たことがあります。舞台ではあの「くっさぁ~」のギャグも入れていました。生活は年金と吉本の地方巡業で支えていると報じられていますが、彼にとっては再び舞台に立つことができることが大きな自信につながり、それを観ている観客も拍手するなかで互いの元気のエール交換があるように見えました。
二部は、漫才・落語。桂文珍がやはり上手い。自身も灘に住み震災についての思いを話の枕部分でちらり。大阪のノリより少し控え面のシャイな神戸市民の拍手を受けていました。
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# by okadatoshi | 2005-01-08 22:20 | デジの目 | Trackback | Comments(1)
太山寺の追儺会(ついなえ)
b0036638_2121663.jpg神戸市内にある唯一の国宝の建造物である太山寺本堂で行われる追儺会(ついなえ)を見に行きました。
鎌倉時代に1300年ごろに再建されたといわれる太い梁に支えられた漆塗りの力強い建造物です。
この本堂の中で毎年1月7日には、三匹の鬼が出て1時間あまりにわたり、走り鬼と三鬼の儀式を行い最後には斧で餅割りを行います。その合間に、子鬼が出てきて床を叩ききりあいを行い、回りを200人ほどの参観者が見ていました。最後に餅巻きがあります。いずれも地の人で、鬼役や子鬼の親戚などが声をかけたり拍手をしていました。観光化されていない土着の伝承行事が、地域ぐるみで伝承されている感じがあって好感を持ちました。この日は、普段は300円の入山料も無料です。
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# by okadatoshi | 2005-01-07 21:21 | デジの目 | Trackback | Comments(0)