昨日の夕刊から今日のワイドショウにかけて、奈良の女児誘拐犯の小林被告の公判での詳細な検察側の冒頭陳述が報じられています。
被告自身のきわめて自己中心的な自らの欲望を満たすために、いたいけな女児を殺害した行為は断罪されなければならないのは当然ですが、犯行にいたった経緯や女児のその時々の行動まで事細かにリポートされています。確かに情報の共有や知る権利はありますが、ここまで赤裸々に新聞・TVを通じてフィルターのないまま「センセーショナルな事実」の洪水の中で耳を塞いでも知らされる現状が、我々が目指した情報社会かとふと思ってしまいました。
「知る権利と同時に、知りたくない情報は報じて欲しくない権利」もあるのではないかと思います。被害者の極刑以上の刑罰をという気持ちは十分わかります。女児がきちんと宿題をする様子を観察した犯人は、利発な子供だからこそ殺さなければ犯行がばれると述べています。これらのやり取りを全国民が知っているという事実の中で、両親の心情は決して癒える事はないし、忘れるという“救い”もないのではないかと気の毒に思います。TVの視聴者はこれらの報道を親のレベルとは異なる劇場型犯罪のギャラリーとして「知った」だけですから。
事件の異常さとともに、知りたくない見たくないものまでメディアを通して配信される情報社会とは果たして、進歩の帰結なのかどうか疑問に思った昨日、今日でした。