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大和朝廷が権力を収める過程の上淀廃寺
9/5のblogの終わりで少し触れましたが、今回見学した“上淀白鳳の丘 展示館”はとても興味深いものでした。日本の考古学には昔の古文書を読み解くイメージから年代の推定をはじめ分析化学の粋を集めた科学になっています。
この展示館は、三つの部屋から構成をされています。

展示室1には、上淀廃寺が建立される以前の淀江の様子を紹介しています。
良好な港を持ち大山が目印をなったこの丘陵地帯には、上淀廃寺を囲むように、妻木晩田遺跡向山古墳群があります。豊かな土地と外部との交易が容易であったことが、有力な豪族の存在に繋がります。

まず目を引いたのが、埴輪です。
それまで見た埴輪のイメージと異なり穏やかな顔をしています。カモノハシのような水鳥の埴輪も他にはあまり見たことがありません。▼
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そさらに私を釘づけにしたのが発掘された甕の部分を取り巻く線画です。▼
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当時は文字のない弥生時代ですから、絵画はその集落で語り継がれていくべき“物語”でしょう。学者によれば次のようなものを表しているのではないかと言われます。

右から太陽、4人が乗った舟、高層の建物、倉庫、銅鐸を吊るした樹木、鹿。説明によれば、当時は鹿が最も利用価値のある動物であったようです。
4人の乗った舟の先端の人の髪飾りにも意味がありそうです。高層の建物の階段は天へつながると考えれば、出雲神社の建物のとの類似性が当然指摘されます。▼
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1991(平成3年)に淀江町教育委員会が発掘調査を実施、法隆寺金堂壁画と並ぶ日本最古級の仏教壁画が初めて出土し、それまでの大和が文化の中心であったという定説に衝撃を与えました。発掘が進むにつれて奈良の法隆寺建設の10年以上も前に同規模の寺院の存在が明らかになりました。廃寺から出土した5394点の壁体や3797点の塑像片はその資料共に国内には例がありません。
遺物から飛鳥時代後期(7世紀後葉)の建立、8世紀中頃の改修を経て、平安時代中期(11世紀初頭)に焼失したものと考えられています。

これらを展示室2で見ることができます。
ここに収められた仏像は粘土によるものです。それが火災による消失によって、加熱され陶器に変質し1000年を超える歳月にも関わらず形を残しています。
塑像び足の指(左)とそれをもとにした足です。このことで、立像の高さが分かります。▼
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壁画の神将で、飛鳥時代後期(7世紀後半)のものです。▼
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塑像「天部 顔面部」と復元されたものです。▼
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展示3の部屋では、これらの資料を基に、同じサイズで金堂の内部を復元しています。
当日、参観者が少なかったことと、私があれこれ質問をするので、専門のスタッフの方が次々の説明をされました。▼



当時の有力な地方豪族としては大和以外にも筑紫、出雲、吉備とあり、上淀での出土品を見ると九州や出雲の影響を受けているものの近畿や、独自の古墳の形態もあります。ここでは、独自の文化も育っていたようです。それらの地方豪族が小国化していく何らかの方策を大和朝廷が行ったのではないかという仮説を説明員はされました。

現物の資料を前にして、私のアマチュア古代史観にも付き合って頂き大学のゼミもどきのいい時間でした。丁寧な説明に時間を忘れ、白鳳期へ思いを馳せました。
by okadatoshi | 2014-09-07 18:13 | デジの目 | Comments(6)
Commented by Hiro at 2014-09-07 20:53 x
紹介された上淀廃寺には、これまで何回訪れたか失念するほど出かけています。
が、私の素人アマチュア古代史観からみて 上淀のすぐ近くにある次の妻木晩田遺跡のほうが
見応えがあるように思います。
http://www.pref.tottori.lg.jp/41863.htm

ご覧になっていたら、放念してください。
Commented by okadatoshi at 2014-09-07 21:29
Hiroさま
時間と広さの関係でつれあいと一緒は無理でした。
次回は、ここと花の季節になれば、花回廊を考えたいです。
Commented by maruyamakazuyo206 at 2014-09-07 22:00
toshi様
鳥取県は、砂丘 水木しげるロード ぐらいしか 訪れていないかもです。ちかいのに、 知らなくていいところ 満載の県なのですね、 氷ノ山も 兵庫県と 鳥取県に またがっているのですよね!埴輪の優しいお顔に 癒されました。toshi様が訪れられた日 展示館が、ゆっくり 見学できて よかったですね!
Commented by okadatoshi at 2014-09-07 22:12
maruyamakazuyo206 さん

私は東部出身なので、今回の訪問先は初めてでした。
自動車道が整備され時間も短縮されました。
Commented by shinmama at 2014-09-08 11:03 x

担当された方も 知識があり、興味を持っている人に 説明されるのは
さぞかし楽しかったことでしょう。
私のように さっぱりわからない人間には 何を聞いたらよいのかさえもわかりませんもの。(笑)

日本の埴輪は ムンクの叫びのように目がグリンと大きいものが多く、
中国の埴輪は 細くてキツイ目が多いように 勝手に思っていたのですが、
この埴輪の表情は どちらでもないやさしいお顔で 現代的ですね。
歴史的な背景がわかっていないので とんちんかんな感想ですみません。
Commented by okadatoshi at 2014-09-08 11:27
shinmamaさま
後で調べたら古代史専門の研究員の方のようでした。
瓦の下から出てきた当時の慌てた人々の足跡の解説などリアリティに富んで
面白かったです。
これだけの金堂を立てられる技術力が大和以外にもあったということは
大和朝廷の成立過程の研究に大きな新資料として注目されます。
当時は、仏教を取り入れることが、文化国家として中国と対等の外交を
結ぶための戦略的な位置づけにもなったようです。
大陸からの文化交流の窓口として日本海側に面し安全な港を擁した上淀は
出雲と連携した文化ゾーンであったのかもしれません。
学生時代数学とは無関係な尋問歴史系の科目もとり、中学の社会科の副免許も
あることをなぜか思い出しました。(笑
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