北へ出講の日です。
学内には創立125年関係のものが目につきますが、今日はマジックナンバーの電光掲示を見つけました。ちょっと見難いですが717日と読めます。2年後の学内のイベントの様子をblogにアップしているでしょうか。▼
体力勝負の90分×3駒の日です。
午後から教室へ少し早めに行くと本日担当の模擬授業の練習をやっていました。
黒板を写そうとすると、すぐに寄ってきてピースです。
こういうノリは自然にやってくれます。▼
模擬授業では、板書の仕方や生徒に話しかける言葉など具体的に注意をします。
たとえば、発問に対して生徒側が「分かりません」というと直ぐに次の生徒に当てますが、教師役の授業者の発問が分からないのか、考えてもわからないのか確認をしないで進みます。教師は50分の授業のシナリオ(教案)を書き∧(かつ)主演も演じます。
当然、ドラマとしての山場が必要です。線分の内分と外分を今日はやりましたが、学生は教科書通りになぞりがちです。
扱う教材が、前の単元のどこと関連しこの後何に繋がるのか、縦の関係で「今」を捉えることができません。
現職時代に教えた視点が思い出され、講評の時間が長くなりますが、自分自身の体験も思い出されます。
怒涛の3コマですが疲れよりも充実感の方がありますし孫のような学生との関わりも楽しいです。いつまでも教師だなと自分で思います。
最後の機器を使った講座では、昨日と同じく“ネットのソフトの感染”に関連した話しを導入に使いました。
その後、阪神淡路大震災の時の勤務校での体験へと脱線して行きました。
当時勤務校には1500人を超える被災者の方々が体育館で生活していて、我々職員は配達される食糧の整理と配布のボランティアに関わっていました。
避難所にはNECや富士通が無料でパソコン一式を寄付しNTTも回線料金を負担していました。震災関係の掲示版で、不足しているものを書きこむとそれを見た方が送ってくれるのです。
パソコン本体には、IDとパスワードが書いてあって、それを見て誰でも書きこむことができました。その掲示板に嘘の書き込みや愉快犯的な内容はありませんでした。
皆必死にに何か役立ちたいという思いで溢れていました。
また、PC-VANやNiftyの教育関係のフォーラムに私は関わっていました。
1980年代にパソコン普及し始めた頃は、学校現場で使えるソフトは皆教師がBasicで自前で作りました。その開発したソフトをライブラリー化して無料で使えるようにしていました。電話代もかなり高額で自前のパソコンも今とは比較できない高価な中、もっと安くもっと便利な機器が無いかと思っていました。
そして、インターネットが普及し掌に乗っかる携帯端末が誰でも持てる当時夢だった機器環境が今は実現をしています。
しかし、夢だった現実の中でフリーソフトにはウイルス混入の危険が入り、掲示板の書き込みで人を傷つけます。我々はパンドラの箱を開けてしまったのです。
便利さと引き換えにさらに現実に対して対処する知恵と技術が必要になってきました。
そのような普段考えている思いや過去の関わりへと話が流れましたが、学生さんはきちんと聞いてくれたように思います。
このあたりの経緯は、いつかまとめて残したいと思っています。